わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
あなたはまたシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しいおきてと、まことの律法および良きさだめと戒めとを授け、